またもや、前回の投稿よりだいぶ時間がたってしまいました。、、
そんな訳で、たまには近況報告をば。
昨日、念願叶ってやっと『この世界のさらにいくつもの片隅に』を観てきました。
そんでちょっくら、感じたこと、考えたことをとりとめも無く書いてみたいと思います。
まず、前評判には聞いていましたが、前作『この世界の片隅に』に対して、30数分、250 カットあまりを付け加えただけで、こうも違ったテイストの映画になるのか、と心底ビックリしまた。
映画パンフの片渕監督ご自身のお言葉をお借りすれば、
「前回はある時代についてのドキュメンタリー。今回はすずさんの内面と喪失を描く文芸作品」
ということなのだなぁと。
もう少し説明するとすれば、前回は「ぼーっとした女の子」の部分が大きかったすずさんですが、リンさんとすずさんの関係を丁寧に描くことで、今回は「いろんな思いを秘めた大人の女性」になっていました。
一方で「変わらない点」も、もちろんあって。それは「世界の小さな片隅」を積み上げていように、短い映画のシーンを淡々と積み重ねることで、思いもしなかった総体が顔を見せると言うこと。
それは、映画自身の成り立ち、作られ方もそうで、たとえば『悲しくてやりきれない』というオープニングタイトル曲。
この曲は、ザ・フォーク・クルセダーズの二枚目のシングルとして「イムジン河」が大人の事情で出版できなかった際に代作として世に出た作品で。数十年後、その曲をたまたま一人の女性ミュージシャンがカバーして、たまたま縁があった監督にデモテープを送った。たまたま制作中の映画の音楽をだれにするか考えていた監督は、「これはすずさんそのものの曲だ」と直感して、映画のオープニングタイトル曲に採用した……と、「世界の小さな片隅」に起きた小さなエピソードが積み重なって、『この世界の片隅に』「この世界のさらにいくつもの片隅i」双方ともに採用された曲でした。
そもそも、スポンサーを得るためのパイロットフィルムを支えた「クラウドファンディング」という手法自体が、典型的です。
そういった、映画自体の成り立ちにつても、映画の内容としても、「世界の片隅の小さなエピソード」が積もり積もって映画になる、というのは、どこまで片淵須直監督が意識されていたかは分かりませんが、おそらく原作漫画の最後を飾る長い詩『右手の歌』が多分根底になるのだと思います。
「貴方などこの世界の 切れっ端にすぎないのだから}としつつも、だからこそ「どこにでも宿る愛」、そしてそれらは「貴方の一部になる」……
ああ、また死ぬほど見返す映画となりそうです(笑)。